サットサンガ記録|祈りとは「自由意志」から生まれる行為
2026年3月19日 参考図書:祈りの理論&サンスクリット語の祈りのことば(Medha Michika)
今日のサットサンガで、とても印象に残ったテーマは「祈り」だった。
これまで私は、「祈り」という言葉にどこか距離を感じていた。
願いごとや、何かを叶えてほしいと求める行為。そんなイメージがあったからだ。
Contents
■ 祈りは「自由意志」からしか生まれない
本の中で印象的だったのは、
祈りとは、完全に自由意志に基づいた行為である、ということ。
ここでいう自由意志とは、
私たちが普段とらわれている「執着」や「条件付け」から解放された状態のこと。
たとえば、
- こうなりたい
- これが欲しい
- こう見られたい
そういった欲望やエゴに基づくものではなく、
もっと静かで、純粋なところから立ち上がる意志。
その状態で行われる祈りは、人間にしかできない尊い行為であり、
そして必ず結果を生む。
■ 祈りは必ず「結果」を生む
Michika先生の本によると、祈りは必ず結果を生むとされている。
その結果には2種類ある。
- ドリシュタパラ(見える結果)
- アドリシュタパラ(見えない結果)
私たちはつい「目に見える結果」ばかりを求めてしまうけれど、
祈りによって生まれる変化は、必ずしも目に見えるとは限らない。
けれども、どんな祈りも無駄にはならず、
必ず何らかの形で作用している。
そう考えると、祈りという行為の捉え方が変わってくる。
■ 祈りとは「自分の声を聞くこと」ではない
今日、自分なりに腑に落ちたのはここだった。
祈りとは、「自分の望みを言葉にすること」ではないのではないか。
むしろ逆で、
自分の中にある条件付けられた欲望や思考をいったん手放し、
“自分の声をあえて聞かない”という姿勢なのではないかと思った。
その上で、
「この宇宙は、いま何を求めているのか」
「自分という存在を通して、何を表現しようとしているのか」
そこに静かに耳を澄ませる。
自分の過去の執着やエゴ、無意識に条件づけられた潜在意識によるのではなく、
自分の意志で自分のすべきことを問いかける行為。
それが祈りなのではないか、と感じた。
■ 祈りは「迷いをなくす行為」
自分の欲望や執着を基準にしている限り、
どこまでいっても優先順位は揺らぎ続ける。
でも、
自分を超えた視点から「なすべきこと」を見つめることができたとき、
その優先順位は自然と明確になる。
祈りとは、そのための練習なのかもしれない。
■ ヨガの実践とのつながり
この話を聞いていて、ヨガの練習と深くつながっていると感じた。
ヨガは、自分の内側を観察し、
思考や感情の動きを手放していくプロセス。
その先にある静けさの中で、
初めて「本当にすべきこと」が見えてくる。
祈りもまた同じように、
自分を超えた存在(宇宙)とつながるための、繊細で静かな行為なのだと思う。
■ 今日の気づき
祈りとは、願いを叶えるための行為ではなく、
「本来の自分の役割に気づくための行為」なのかもしれない。
そしてそれは、
日々のヨガの実践の延長線上にあるものだと感じた。